おはようから、おやすみまで。皆さんこんにちは!うちいくTVの完走マン&感想マンの中野六区です。お久しぶりのコラム第二弾になります。前回の記事で、とある6号機について触れると書きましたが、予定変更して僕の憂さ晴らしにどうかお付き合いください。(この記事を書き終わった後に前回の記事に気づいたわけではありません)


 
 
突然ですが、これを見てください。画像はひぐらしのミドルを打ったときのものです。
 


 
かなりショッキングな画像を貼りましたが、2日間かけて(お店は違いますが)同じ機種を打った結果です。嘘だッ!と思いたいですが、12人の諭吉たちが羽ばたいていきました。この結果は偶然なのか、はたまた必然だったのか…。どちらにせよ腹が立つ!この台を打ったことが悪いのか?この機種を選んだことが悪いのか?それともパチンコ店に行ったことが悪いのか?それともこれは悪いことなのか?思考の渦に飲み込まれながら帰路につきました。

「偶然負けた」

「負けるのは必然だった」

どちらにせよ腹が立つ!(2回目)どちらも互いに対義語ではありますか、この2つの言葉が嫌いになりました。自分の選択を全て否定されているように感じるからです。偶然に関しては自らの選択が招いた結果のような気がしますが、なんか曖昧なんですよね。「この日、この時間、この台、この機種を打ったから偶然負けた」最後がボヤケて見えるんですよね。言葉に誤魔化されているように感じて納得がいきません。「この日、この時間、この台、この機種を打ったが負けるのは必然だった」最後で全てを否定されます。お前の選択が失敗だったんだと言わんばかりです。決して負けたから難癖をつけているわけではありません。決して。

ということで、「偶然」「必然」をテーマに今回は書いていきたいと思います。
冒頭でも説明しましたが、僕はこの2つの言葉が(大)嫌いです。
 

偶然について

ぐうぜん【偶然】
他のものとの因果関係がはっきりせず、予期できないような仕方で物事が起こること。

なんとなく言葉の意味は理解していましたが、大事なのは”因果関係がはっきりせず”の部分です。最後にそれまでの選択全てを、ひっちゃかめっちゃかにされるということです。自分が何を選んでも、どんなことをしても、最後は関係ありません。自らの選択を最後に全て否定する、そう、あなたの敵なのです。
 
僕は偶然が嫌いです。
 

必然について

ひつぜん【必然】
かならずそうなるに違いなく、それ以外にはありえないこと。

これもひどい。選択することすら許されないのです。何をやっても結果は同じであり、まるで拘束具をつけられている、奴隷のような気分になります。熟語の意味を調べて気分が悪くなったのは初めてです。

僕は必然が嫌いです。
 
 

皆さんに伝わりましたでしょうか、この2つの熟語の忌々しさが。ただ僕はこの2つの熟語に抗いたい。自分の選択は決して悪くなかったと納得がしたい。最善の選択を行った場合はこの熟語たちに一泡吹かせれるのではないか、負けという惨劇を回避できたのではないか。そう思い“選択”の重要性を改めて考え直しました。
 

惨劇を回避するために

ひぐらしのスロットではART突入を賭けた、運命分岐があり“選択”を迫られます。

左を選べば75%で成功です。なんとなく選んだ選択でも75%で良い結果になります。逆にしっかりとした選択をしても75%で悪い結果にもなります。ただここで右を選んだ場合、”ビタ押し”を成功させることで100%良い結果になります。ここで僕は気づきました。正解の選択をしていても、もしかしたら悪い結果になる可能性があることに。正解と不正解の2択だけだと思い込んでいましたが、選択肢は無数にあり、その中で最良の選択(ビタ押し成功)をすれば勝ちを掴み取れるのではないかと、惨劇を回避できるのではないかと。ここで、とある少年A君を例に、A君の惨劇を回避させてみましょう。

A君 うちいく小学校6年生
思春期に突入したばかり。Bちゃんに片思い中。BちゃんもA君が好き。
(中野六区 11歳)

A君の親は共働きで朝食は一人で食べます。机の上には“食パン”“カレーパン”が置いてありました。A君はカレーパンが大好きですが、賞味期限を見ると既に過ぎています。少しくらい大丈夫かと思い、“カレーパン”を食べて登校しました。3限目の途中に突然の腹痛に襲われます。“トイレ”に凄く行きたいが、なんか恥ずかしい。授業もあと10分で終わるしなんとか耐えようとしますが、ここで我慢の限界。A君は授業中に漏らしてしまったのです。Bちゃんはそれを見てAを嫌いに。悲しみの中、先生に連れられてトイレに行くのでした。
 
この短い惨劇物語の中にも、惨劇を回避させる無数の選択肢が含まれていました。朝食の段階で“食パン”を選んでいたら全ての未来が変わっています。これが最良の選択ですね。もし“カレーパン”を選んでいたとしても、腹痛がきた時点で“トイレに行く”選択をしていれば惨劇を回避できました。”学校をズル休みする”みたいな選択でも問題ないと思います。惨劇を回避するための選択肢は複数あり、その中で最良を選ぶことができたら、より良い結果、より良い人生になっていくのではないでしょうか。
 

まとめ

この世の全てが無数の選択の上に成り立っています。その中で最良を選んだとしても、自分以外の人が同じ選択をしたら結果が変わることがあります。それが面白いところであり、悲しいところでもありますが、我が人生をより豊かにするためにも、人生の択当てを頑張りたいです。そろそろ“選択”という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうなのでこの辺で。
 
 
 
テーマに対して締りが悪いって?たぶん偶然だと思いますよ。
 
 
 

僕が”まどマギ”を選んだのは必然でした。

ライターについて

名古屋で生まれて、なんとなく上京。 何となく社会人になり気付けば役職を貰いディレクターになるも、 その反面普段の素を出せずにいる。決死の思いで、うちいく2ndへ応募。